母への感謝がつくった学校

School History
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建学の精神

なぜ四條畷学園を創ろうと考えたのか。
その理由と、創立者の強い思いが込められた言葉です。

報恩感謝

ほうおんかんしゃ
人からしてもらったことに感謝して、
自分も人のためにできる
限りのことをしようと思うこと。
四條畷学園を創立した牧田宗太郎は、江戸時代の終わりの元治元年(1864)年に生まれました。父・虎之丞は大坂城で働いていましたが、明治維新のために仕事を失い、一家の生活は女学校の先生を始めた母・栄子の収入に頼るようになりました。女学校で働きながら苦労して7人の子供を育てる母を助けようと、15歳になった宗太郎は小学校の教員として働き始めます。成長してからも教育者として日本各地の学校で教鞭をとっていた宗太郎でしたが、明治44年(1911年)に母・栄子が亡くなってしまいます。母親として子供たちを厳しく、そして優しく育て、女学校の先生としても、心を込めて生徒たちを教えてきた母の姿を見続けてきた宗太郎は、「いまの自分があるのは母親のおかげだ。亡くなってしまった母のために、自分にできることはなんだろう」と考えるようになりました。そして、亡くなるまで子供たちや生徒たちのことを思い続けていた栄子の意志を受け継いで、栄子のようにしっかりと自立した、立派な女性を育てる学校を作ることを決心し、宗太郎と同じく、母のためにできることをしたいと思っていた弟の環と、その妻のメイとともに、大正15年(1926年)に四條畷高等女学校を創立しました。このように四條畷学園は、自分のためにしてもらったことに「ありがとう」と感謝し、自分もお返しをしようとする気持ちで作られた学校です。そしてその報恩感謝の心は、90年経ったいまでもずっと受け継がれています。
宗太郎は府立四條畷中学校に在任していた大正8(1919)年に1年間の海外教育視察に赴き、イギリスやアメリカの学校を視察。
ここで、当時の日本にはまだなかった“個性”を尊び自立心を養う新しい教育に触れました。 この時、宗太郎はすでに還暦を迎えるに近い55歳でした。
しかし、このような先進国における教育視察の経験が、宗太郎の教育への思いをよりいっそう強くさせ、「四條畷高等女学校」創立を決意させることになります。帰国後、四條畷中学校の第三代校長を務めました。退職後、いよいよ学園の創立に向けて情熱を注ぎ込んでいきます。
そして、大正15(1926)年3月に「四條畷高等女学校」(修行年限5年、定員750名。以下、高等女学校)の設置申請が認可され、翌月の4月11日に古川橋の仮校舎において開学を果たしました。
『戦後英米学校巡り』と近代教育
宗太郎は、先述の海外教育視察を敢行していますが、その詳細は、大正10(1921)年に発刊した著作『戦後英米学校巡り』に記されています。同書冒頭には「戦後日本が列強に遅れないようにするには、どうしても世界の大勢を知らねばならぬ。(中略)教育者の如きは、事情の許す限り率先海外に出て、その所見を報道し、国民を警醒し激励せねばならぬ」とあり、日本よりも先進的であると言われていた欧米から教育について学び取ろうとする姿勢が強く表れています。また、視察前に生徒たちには「私は常に自分は人間として如何にして何事を成すべきかを考えながら終始汲々として何事かを為している。今度海外へ行くのもその道程を踏むに過ぎない」と語っていますが、これは「人間は精神的であらねばならない」という意味だと述べています。
宗太郎はイギリス、アメリカにて数十校を巡り、教師や生徒から話を聞き見分を広めました。イギリスのセントポール高等女学校では、生徒たちに次のような講演を行っています。「私は一教員として生徒教養の任務を帯びているが、女子教育に対しては最も深い関心を寄せている。私には7人の兄弟がおり、母はこの多数の子供を養育するのに、厳格にして慈愛に満ちた教訓をもって臨んだ。私が皆さんのお目にかかることができたのは母の良き教訓の賜物であると信じ、将来は女子教育の為に尽力し亡き母の御恩に報いたいと思う」(主旨)。ここからも、英米での教育視察が宗太郎の学園創設の決意に向けて与えた影響が大きく重要なものであったことが窺えます。
また学園本館の正面玄関横のタイルに今日も残っている「Manners makes man」という言葉は宗太郎が書いたものですが、これも、イギリスでの教育視察で訪れた学校の教訓をもとにしており、その経緯も同書に記されています。
牧田 宗太郎 牧田 環 牧田 メイ
四條畷との関わり
飯盛山のふもちに、南北朝時代の武将楠木正行を祭る四條畷神社があり、この境内に正行の母、楠木久子を祭る御妣神社があります。
甘南備(今の富田林市)で生まれた久子は、19歳で楠木正成(正行の父)のもとに嫁ぎ、正行ら6人の息子たちを育てます。しっかりとした性格の久子は、戦に向かう夫を励まし勇気づけ、息子たちに対しても、優しさと厳しさをもって接しました。夫が戦いに負けて亡くなった時も、自暴自棄になった息子たちに強く生きるように諭したエピソードも残っています。
生徒たちを久子のような賢く優しい母親に育てたいと思っていた宗太郎は、迷わずに学園の場所を久子を祭る御妣神社がある四條畷に決め、学校の名前にも四條畷の地名を取り入れました。
校章のデザイン
四條畷学園の校章は、3枚の葉の中に花が咲いているデザインをしています。この葉は、四條畷の象徴であり学園の樹でもあるクスノキの葉で、3枚の葉の数は「生徒・先生・保護者」と、学園の教育理念にある、「徳育・知育・体育」を表しています。そしてその中に、美しく高潔な品性を象徴する菊の花が、3枚の葉に守られるように置かれています。生徒・先生・保護者の関係を大切にし、徳・知・体の3つのバランスをよく身につけ、礼儀正しい品性を持った人を育てたいという、学園の思いが込められています。
四條畷学園校章
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